溺れる猿の気持ち

取るに足らない日々のなにか。澱のように溜まる愛すべきもたち。

見えているものは…2

この前の続きで。自分の見えてるもののみが真であるって話。

 

トゥルーマンショーって映画。

 

確かに作り物の中で生きてる彼だけど。そのことを知らなければ、作り物を本物の世界だと思い込む。

どれだけウソであろうと。本人がホントだと思えばそれは真なのだ。

 

例えば自分が一人でいる時の周りの世界はどうなっているのか。

そんなことを考えたりしないですかね?

 

そりゃもちろんそれぞれの生活を送っているわけで。自分と会っていなくてもそれはかわらない。

かわらないけど自分が観測していないんだから、それはわからない。

自分といる時の相手だけが真であっる。

自分が近づいた時にのみ存在してるんじゃないかって。小さい頃は本気で考えたこともあった気がする。

 

つまり、観測できてはじめて存在できるってことなのかな。

あると認められてはじめて存在できるわけで。

誰も認識してくれなければいないのも同然。

 

そうなると、本当に自分が存在するためには、他者から認識してもらう必要がある。

 

でも、他の人に意識があるってどうして分かるのだろうか。

 

うん。そりゃないわけがない。

でも極端に言えばRPGにでてくるNPCの村人のような存在でないと誰も否定出来ない。

自分でないのだから。

 

確かなのは自分が存在してるってこと。

それだけなのに、世界に自分が存在するためには、不確かな他者からの認識が必要というややこしい事態に。

 

そりゃ、目の前にあるんだからあるんだろって言われりゃそうだけど。これが難しい。

哲学的ゾンビとかね。

 

この辺りはもっと深く考えたい。