溺れる猿の気持ち

取るに足らない日々のなにか。澱のように溜まる愛すべきもたち。

好きの強度

いつの間にやら、4ヶ月近くも放置。時間がたつのが早すぎて、少し怖い。

加速していく世界にウンタラカンタラ…。ただたんに、サボっていただけなんですが…。忙しさにかまけていたらダメですよね。

アナログなブログを書き始めたのを機に、心機一転、毎日書く。きっと書く。

 

 

好きなものは? そう聞かれると、なんとも答えづらい。

好みがないわけじゃない。猫が好きだし、ジンジャエールも大好き、あげだしたらキリがない。でもそれって、経験からくる比較の末にあるもので、今後どんどん変わっていくんだと思う。かわいい動物を見つければ、猫より好きになるし。7upかジンジャエールかで、正直迷うし。

何処かに基準を作って、好きと嫌いを分ける。ふたつを天秤にかけて、より好きな方を好きという。

 

きっと、みんなもこうやって『好き』を決めているんだと思う。わからないけど。それに、これはこれで正しいことだと思う。

 

だけど、『好き』の強度を思うと、簡単に口にできなくなる。

 

『~好き』って気持ちは、否定出来ない。本人以外が、そこに立ち入ることはできなくて、認めざるをえない。

 

『I can』は否定することだってできる。例えば、できるできないの基準は外にある。

~が得意といったって、他の人との比較で否定されるちゃう。せいぜい、自分の中では~が比較的得意、が精一杯。

 

だけど、『好き』は違うと思う。好きの基準は本人の中にしかない。

それはもう唯一絶対の強度を持ってる。

 

好きって言葉は、どうしても重く考えちゃう。

 

唯一絶対の好きが欲しいのかもしれない。

何者にも侵されない、自分だけの唯一絶対が。

 

比べられないからこそ、他人と比べてしまう。

あの人よりも、果たして自分は好きなのか。

なにもかもを捨てて、それを選べるのか。

 

例えば、プロ野球選手の野球が好きと、自分の野球が好きでは、大きな差があると思う。

でもだからといって、プロに成れた人が一番好きなのかといえば、そうじゃない。

 

同じ人を好きになったとして、選ばれなかったほうの気持ちが劣っていたわけじゃない。

 

結局『好き』なんて比べられない。言ったもん勝ち。

比べるなんておこがましい。胸を張って好きだといえる人の勝ちなんだから。

 

素直に好きといえるくらい、大人に成れればいいと思う。